インタビュー ハンガリー

クイーン ハンガリアン・ラプソディ:

14:38The European Quartet

ライブ・イン・ブダペスト’86



今なお多くのファンに愛され、輝き続ける伝説のロックバンドクイーン。フレディの最後のツアー映像が映画館上映用にデジタルリマスターされ、全世界の スクリーンで順次公開されています。すでにワールド・ワイドで話題騒然となっている作品を、1124日(土)より、日本でも公開されます。Barks Japanより)
当時、このクイーンのライブは、東欧で開催される史上最大規模の西側ロックコンサートとして世 界から注目され、ステージの感動を後世に伝えるべく、ハンガリーのトップレベルの映画関係者が集結してライブ収録に携わっていました。今回は、当時のコンサート&映画のプロデューサーだったヘゲデゥーシュ・ラースロー氏とミハーイ・ジョージ氏のお二人にお話を伺いました。(以後HLMG



1986年にQueenを受け入れたブダペスト、ハンガリー人のメンタリティ、社会状況などを反映するQ&Aどうぞお楽しみください。

Q, 鉄のカーテンの中で行われた史上最大規模の西側ロックコンサート。どう言う背景があってここまで大規模なコンサートが実現されたのでしょうか?

HL 歴史的な背景を考えると、1968年のプラハの春以前の時期に遡って考える必要があります。チェコスロヴァキアの音楽界は西側へ少しずつドアを開き、得にアヴァンギャルドなバンドを招待するなどしていました。同時期にプラハ以上に活発だったのはポーランド。クラクフのPod Jaszczurami KlubやワルシャワのStodolaどの会場に西側からもバンドが来るようになっていました。そして、ワルシャワでローリング・ストーンズアニマルズのコンサートがあり、当時若かった私達は、数日前から列に並んで、チケットを買おうとしていたのを良く覚えています。ちなみに僕は、結局買えなくて、入れなかったですね(笑)。そしてソヴィエト軍が国境を突破し侵攻した「プラハの春」がこの動きに一気にストップをかけました。

1970年代末ごろ、ポーランドの公共コンサート輸入会社PagartとハンガリーのInterkoncert社(両方とも国営企業)がまた西側のアーティストを呼び始める動きをし、1979年にエリック・クラプトンのポーランドツアーが企画された。カトヴィツェでの第一回目のコンサートの時、舞台と観客席の間はロープではなく、警棒を手にした警察官の列が並んだ。案の定、コンサートが始まり、第一列の若者達が飛んだり跳ねたり騒ぎ始めると、警官は警棒で彼らをたたき始めた。それを見たクラプトンは立ち上がり、舞台を降りて、車に乗り込んで、空港に直行した。その直後に、ルーマニアでブームタウン・ラッツのコンサートが企画され、コンサート当日、同じ要領で警棒を手にした警察官の列が並び、第一列の若者が騒ぎ始めると、たたき始めるわけです。そしたらボーカリストのボブ・ゲルドフ、2mくらいの長身の大男ですが、立ち上がって、3人の警察官をKOゲルドフはその場で逮捕されましたね。イギリス大使館の介入で早く釈放されたけれど、西側のアーティストは鉄のカーテン内のコンサートに来たがらなくなりました

コンサートのプロデュースをしている私達はいやがる西側のエージェントをどうにかして納得させようとするのにまた数年間がかかりました。1982年のブダペスト・ネープスタジオンのオープンは良いきっかけとなり、トーキング・ヘッズサンタナを招待するのに成功しました。

ちょっとした裏話ですが、サンタナの代わりにウィーンでコンサートをしていたローリングストーンズが来る企画もありましたが、彼らの保険会社が保証しなかったため、キャンセルに。サンタナは快く引き受けてくれました。

1986年になると、共産圏も大分ゆるくなっていた部分があって、西側世界の音楽はラジオやテレビでも聴けるようになっていました。こうして歴史にも残る1986年のクイーン・コンサートの企画が始まったのでした。


Q, スポーツ会場のネープスタジオン、コンサートに合わせてどんな技術的な準備がされましたか?(注:ハンガリーNépstadion、現在はPuskás Ferenc Stadion改名)

MG まず、映画の収録をするためには十分な照明が必要で、当時の映画工場Mafilm国営企業)にあった文字通りすべての照明器具とライトが会場に設置されました。小さいスポットから5kwの大きいものまで、全部です!それだけではありません。全国のすべての35mmカメラを国中から輸送させました。数は17個のカメラ。映画収録には2週間かかりましたが、ハンガリー全国の映画業界で働く文字通り全員が、2週間、これにかかりっきりでした。その2週間で使ったテープの量は前年度1年間に相当する量でした。そしてその2週間、他のテーマの収録はワンカットも造られませんでした。

HL 一番ひやひやしたのは、カセットチェンジ。一つのカセットに10分しか収録できないため、17人のカメラマン全員が同時にカセットチェンジという最悪の状況になったら、数分間が収録されていないことになりかねない。一分でも抜けたらどうしようと、気が気でありませんでした。

MG 僕はこの2週間でたばこをやめましたね。会社の全財産をはたいた国を挙げての一大事。実は、バンドとの契約が出来ていませんでした。最後の最後まで弁護士たちが調整をしていた。すでに最後のリハーサルの日が来て、僕はある時、ふっと周りを見ると、全国の同業者が忙しそうに走り回っている。でも、契約はまだ…その時は、心臓発作を起こしそうだったのを覚えています。
けど、ヘゲデゥーシュ氏とJim Beach(クイーンのマネージャ)との間の握手は信用の置けるものでした。物事は無事終了。


以下はフレディーさんとバンドに関する質問です。

Q、フレディーがハンガリー関連の歌も舞台で歌うことはどなたのアイディアでしたか?

HL フレディーのアイディアでした。ラジオの音楽番組の製作者が用意したテープがあって、それには人気のある民謡が収録されていました。フレディーは全曲を本当に慎重に聴いて、春と恋愛をテーマにしたこの曲を選びました。(Tavaszi szél vízet áraszt)



Q, センテンドレのギャラリーで撮影された映像を見ると、フレディーは芸術にかなり興味を持っている様子ですが、ハンガリー滞在中はどんな毎日を送っていましたか?

HL フレディーはアールデコ芸術品のコレクターでした。ブダペストとセンテンドレのコレクションやアンティークショップの数々を訪問し、絵画、置物、像などを多く買われたようです。出かける時は最低20人が一緒に行動するので、行く先々で大騒動になります。フレディーの前に4人のボディーガード、後ろに4人のボディーガード、マネージャ、パーソナルアシスタント、運転手、通訳、などなど、車も5台は必要でした。例えばセンテンドレのギャラリーに入り、出てくるまでの間、現地の人が300400人は集まり、警察が出動することに!映画上では見栄えがするシーンになったので、ちょうどよかったですけどね…

フレディがハンガリーのパーリンカを初めて飲む直前
アルコール度数約50度、飲んだ直後

Q, 収録されたライブの映画はどんな反響でしたか?

MG ブダペストのコングレス・センターがプレミアの会場になり、ブライアン・メイとマネージャのJim Beachが来てくれました。満席で、スタンディングオベーションがいつまでもやまない状態でした。

全国の映画館で3ヶ月間放映され、ずっと満席でしたね。ハンガリーだけではなく、共産圏全体で大人気を呼んだ作品になりました。

HL 西側諸国では映画として上映されませんでした。理由の一つは、当時の映画館技術の音響がロック・コンサートの本物のサウンドを出すほど良いものはなかったため。そのため西側では、最初からVHSビデオの形で販売されるようになりました。

ブダペスト公演を含む86年のツアーは、フレディがクイーンのフロントで歌った最後のステージとしても知られています。ぜひお近くの映画館でお楽しみください!

映画館に行けない方は全体の映画をこちらでご覧いただけます





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